絶対音感を持つ人々の間では、次のような説がささやかれている。
「フラベリックを服用すると、音が低く聞こえる」というものだ。
フラベリックというのは咳を鎮めるためのもので、ベンプロペリンリン酸塩なるもの を主成分とする、ファイザーの薬である。
「フラベリック」と検索するだけで、この薬で音感が狂わされたという体験談がでてくる。
それほどこの説は広まっているのだろう。
興味があったので、いつどこからこの説は唱えられ始めたのかを調べることにした。
なお、フラベリックが音感に影響を与えるか否かには言及しない。
なお、ここからはこの説を、「フラベリック有罪説」と呼ぶことにする。
「フラベリック有罪説」の伝播
googleで期間指定で検索し、「フラベリック有罪説」の伝播経路を調べた。
その結果、次のような経緯が判明した。
- 絶対音感所有者らが、薬の服用後に音感が低く聞こえるようになった経験談を公開
#30 絶対音感を狂わす薬品(1999/3)
半音低い世界での生活(アーカイブ)(力武 京子、1999/4)
音が低く聞こえる--せきどめ薬のしわざ?(アーカイブ)(杉原俊雄、2002/11)
- 副作用による音程低下(立証の難しさ): 躁うつ病者かく語りき(主に躁時)(2004/1/30)
- コメント欄が盛り上がり、その中でフラベリックでは?との説が浮上
- 風邪薬「フラベリック錠」と絶対音感の関係(アーカイブ)(2005/12/29)が話題に
- 2006年ごろ、一気に広まる
- 厚労省のDSU(医薬品安全対策情報)が更新され、副作用に「聴覚異常(音感の変化等)」が追加される(2006/7)
※杉原氏に関しては、絶対音感かどうかは不明
というわけで、2000年前後になって「フラベリック有罪説」が生まれたらしいことが分かった。
最初は抗てんかん薬テグレトールも問題視されていたのが、だんだんとフラベリックに関心が集まっていく様は興味深い。
抗てんかん薬より、咳の薬を服用している人のほうが多いからだろう。
なおテグレトールに関しても、2005年にDSUが改訂され、副作用の欄に「音程の変化等」が付け加えられている。
「フラベリック有罪説」はなぜ2000年ごろ生まれ、2005年ごろ広まったのか
しかし、フラベリックが認可されたのは1970年である。
なぜそんな昔に発売された薬の副作用が、近年になって問題になるようになったのか、という疑問が残る。
絶対音感ブームが原因で、この説が生まれたのだと、自分は思う。
そもそも最初の書き込みからして、
『絶対音感』(最相 葉月、1998、小学館)の出版後なのだ。
この本は結構売れたらしいので、これをきっかけに絶対音感の存在を知った人も多いだろう。
またこの本により、自身に絶対音感があるのではと感じた人もいたと思う。
自分は絶対音感なんだという自信が、薬の服用後に音が低く聞こえるという奇妙な体験を公表する後押しになったのかもしれない。
しかし、「フラベリック有罪説」が広まったのは2004-6年ごろだ。
経験談自体が投稿されてから、2ちゃんねるで話題になるまでおよそ4-6年かかっていることになる。
なぜこの説が広まるまで時間がかかったのだろうか。
原因の一つとして、ブログの普及があるのではないかと考えている。
『ブログの実態に関する調査研究 ~ ブログコンテンツ量の推計とブログの開設要因等の分析 ~ 』(情報通信政策研究所、2009)によれば、ブログが普及したのは2004-2005年ごろである(図表 2-3-2 国内のブログ数の推移)。
これは、「フラベリック有罪説」が有名になった時期と重なる。
すなわち、ブログブームにのってブログを開設した人たちが、音が低く聞こえるという体験を自身のブログにつづり、それが話題になっていったのだと思われる。
mixi開設もこの時期であり、説の広まりを後押ししたのではないだろうか。
ブログ以前に流行っていた個人サイトと比べれば、多くの人々と意見交換をしやすいことも手伝って、説が広まるようになったのだろう。
では、なぜ2ちゃんねるで話題にならなかったのか。
2ちゃんねるには音楽関係の板もある上、2004年以前にも絶対音感のスレッドが多数あった。
中には前述した個人サイトの内容をコピペしたレスもあったが、大して話題にはならなかったのだ。
思うにこれは、ブログと掲示板の特性の差があるのではないか。
掲示板というのは、不特定多数の人々が話し合うところであり、場合によっては意見が無視されることもある。
一方ブログというものは、個人の意見を表明する恰好の場である。
それまで2ちゃんねるでスルーされていた意見が、ブログという場を得ることで、爆発的に広まったのかもしれない。
なぜ日本で「フラベリック有罪説」が話題になったのか
実は、英語圏ではこの問題は周知されていないようだ。
「flaveric pitch」と検索してヒットするのは、日本人の音感悪化の体験談を読んで、自国にも広めようとしたらしい、オーストラリア出身者の文章くらいなのだ。
ではなぜ、英語圏とは違い、日本ではフラベリックが問題視されているのだろうか。
音楽家の絶対音感保有率が高いから?
実は、日本人の音楽専攻者には絶対音感保有者が多い、というデータがあるという。
そのデータは、宮崎謙一氏の書いた
『絶対音感神話――科学で解き明かすほんとうの姿――』(宮崎謙一、2014、化学同人)に載っており、著者らの行った研究を基にしている。
その研究は、音楽専攻者に絶対音感所有者が何%いるかを調べたもので、絶対音感テストで60問のテストで正答率90%以上だった人を絶対音感所有者と定義している(p.22、同著)。
その定義に従うと、新潟大の教育学部(音楽専攻)の学生114人のうち、絶対音感を持っていたものは39.3%いたのに対し、ショパン音大の学生250人の中で絶対音感を持っていたものは8.8%しかいなかったという(p.108、同著)。
また、京都市立芸術大学の音楽学部の学生では、およそ60%に絶対音感があった(p.109、同著)のに対し、ワルシャワ大学の学生(音楽学)では、117人に1人しか絶対音感がなかったそうだ(p.114、同著)。
従って、音楽専攻者における絶対音感所有者の割合は、欧米人(10%以下)と比べると日本人(40%以上)の方が多いといえる。
音楽を習っていた人が多いから?
ただこれは音楽を専門的にやっている人たちのデータである。
やはり音楽を専門にはしていない人のほうが世の中には多いだろうし、「フラベリック有罪説」が広まったということは、音楽家以外にも絶対音感所有者が多くなければいけない。
実は、『絶対音感神話』には、興味深いデータがある。
筆者らは音楽を専攻していない人にもテストをしており、結果新潟大の学生1163人のうち、5.3%が絶対音感を保有していたのだという(p.110、同著)。
しかしその中からピアノやエレクトーンのレッスンを6年以上受けた人だけを抜き出すと、529人のうち10.6%が絶対音感を持っていたのだ(p.111、同著)。
これらのデータから、音楽のレッスンを6年以上受けたことがない人は634人であり、その中で絶対音感がある人は1%弱だっただろうことが分かる。
そこで
二群の比率の差の検定とは - 統計学用語 Weblio辞書を基に計算すると、長期のレッスンを受けた群と受けていない群の差は、有意な差がある。
つまり、音楽を習っていた人が多い国ほど、その国には絶対音感所有者が多いことになる。
なお、その国における絶対音感の割合(p)を求めるには、
p={n1×p1+n2×p2+(N-n1-n2)×p3}/N
n1=音楽専攻者数
n2=音楽専攻者を除く、音楽レッスンを6年以上経験している人の数
N=総人口(日本の場合は一億2千万くらい)
p1=音楽専攻者に占める絶対音感の割合(日本の場合は0.4-0.6くらい? 欧米では0.1未満?)
p2=レッスン受講者(6年以上)に占める絶対音感の割合(日本の場合は0.1くらい?)
p3=未経験ないし音楽経験6年未満の絶対音感の割合(0.01未満だと思われるが、少しでもかじった人がどれくらい含まれていたのかが分からないので、これよりも低い可能性あり)
という計算をする必要がある。
しかし、値がわからないものが多く、計算することはできなかった。
つまり、「日本人に絶対音感が多いから『フラベリック有罪説』が広まった」と思っていたのだが、証明は途中で行き詰ったことになる。
まあ、絶対音感が日本で重視されているのは確かだから、絶対音感を意識しやすいがために、音感悪化に敏感になりがち、ということかもしれない。
なお、新潟大のデータではレッスン経験6年未満の学生の絶対音感率は1%未満であるが、レッスン経験皆無の場合その値がどれほどだったのか、個人的には大変気になるところだ。
中国では?
だが、ここまでの話をひっくり返すようだが、絶対音感所有者が多いのは日本だけではない。
中国の上海音楽学院の西洋音楽専攻の学生の絶対音感率は、43%ほどだったというのである(p.112、『絶対音感神話』)
だとすれば、中国でも同様の問題が話題になっているはずだ。
しかし、「绝对音感 磷酸苯丙哌林」とか「绝对音感 伤风」で検索しても、それらしいことはわからなかった。
音楽レッスンを受けている人がそもそも少ないとか、音楽家の絶対数が少ないとかだろうか。
研究はなされているか
では、絶対音感に影響を与える薬に関して、科学論文は出ているのだろうか。
抗てんかん薬テグレトールの主成分はカルバマゼピンであるが、これに関しては音感が狂う症例がいくつか報告されている(紺野衆、2005など)。
テグレトールに関しては、科学的に証明がなされたと言ってもいいのではないだろうか。
しかしフラベリックに関しては、それらしいものがヒットしなかった。
なぜか考えてみたが、おそらくは研究のしにくさにあるのだと思う。
てんかん情報センターによると、てんかん治療は数年に及ぶという。
その一方で、フラベリックは咳止めだから、長期服用は考えづらい。
つまり、すぐに音感悪化の症状も消えてしまうために、研究しづらいのだと思われる。
では、「フラベリック有罪説」を立証するにはどうしたらいいのか考えてみた。
- 絶対音感者を募集する
- 絶対音感テストを行い、正答率90%以上の人を選抜する
- 彼らには定期的に音感テストを受けてもらう
- 風邪をひいたときは臨時で音感テストを受ける
- その後、実験者側からフラベリックないし偽薬を提供し、その後にも音感テストを行う
- 風邪が治った後にもテストがあると望ましい
また、かかりつけ医とも協力をして、健康に異常が出ないようにしなければいけないだろう。
なお、定期的に音感テストを受けてもらおうと考えたのは、それ以外の要因による音感低下(加齢など)も考慮したいからだ。
絶対音感団体でもあれば、データを集めやすくて便利なのだが、今はない模様。
まあ絶対音感所有者の多くは音楽を専門にしている人が多いだろうから、協力は見込めないのだが。
まとめ
- 『絶対音感』(最相葉月、1998、小学館)の発売により、絶対音感所有者らが自分の経験を主張し始めた
- 2004-2006年ごろ、ブログブームとともに、今まで埋もれていた経験談が注目されるようになる
- 話し合いの中で、テグレトールとフラベリックが原因だという説が出てくる
- 日本で広まったのは、絶対音感の割合が高いからかもしれない(確証なし)
- テグレトールは検証済み
- フラベリックが調べられていないのは、長期服用しない薬だから?
参考
一般財団法人 日本医薬情報センター「一般財団法人 日本医薬情報センター iyakuSearch 医薬品情報データベース」<http://database.japic.or.jp/is/top/index.jsp>
独立行政法人 医薬品医療機器総合機構<http://www.pmda.go.jp/>
総務省 情報通信政策研究所(2009)『ブログの実態に関する調査研究 ~ ブログコンテンツ量の推計とブログの開設要因等の分析 ~』
宮崎謙一(2014)『絶対音感神話――科学で解き明かすほんとうの姿――』化学同人
「二群の比率の差の検定とは - 統計学用語 Weblio辞書」<http://www.weblio.jp/content/%E4%BA%8C%E7%BE%A4%E3%81%AE%E6%AF%94%E7%8E%87%E3%81%AE%E5%B7%AE%E3%81%AE%E6%A4%9C%E5%AE%9A>
紺野 衆(2005)、「カルバマゼピン投与により半音低下の聴覚異常が出現したてんかんの1例」
てんかん情報センター「第7章 治療の継続 | てんかん情報センター」<http://epilepsy-info.jp/news/n4-7/>
参考文献追加、一部文章修正(2016/12/23)
読みづらいところを修正(2017/3/16)
さらに文章を修正(2017/4/28)
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