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廃墟の落書き

怖いコピペとして、以下のものがある。 俺が小学生の頃の話。 俺が住んでいた町には廃墟があった。 2階建てのアパートみたいな建物で、壁がコンクリートで出来ていた。 ガラスがほとんど割れていて、壁も汚れてボロボロだったから、 地元の人間でも、あまりこの場所に近づくことはなかったらしい。 ある日、俺は友人と肝試しをすることになって、この廃墟に行くことにした。 まだ昼ぐらいだったから、建物の2階まで上がって建物を探索した。 そしたら並んでいる扉のひとつに、文字が書いてあるものがあった。 友人と近づいて確認してみると、扉の前に「わたしは このさきの へやに いるよ」と書いてあった。 俺と友人は扉を開けて中に入り、先に進むことにした。 歩いていくと分かれ道に突き当たって、壁に「わたしは ひだりに いるよ」と書いてあった。 少し怖かったけれど、俺と友人はそのままひだりに進むことした。 すると両側に部屋があるところに突き当たって、壁に「あたまは ひだり からだは みぎ」 と書いてあった。 友人はこれを見た瞬間に、半狂乱になって逃げ出した。 でも俺はその場所にとどまって、勇気を出してみぎの部屋に行くことにした。 部屋に入り進んでいくと、突き当たりの壁に「わたしの からだは このしたにいるよ」 と書いてあった。 下を見ると、「ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね」。 俺は急いで、その部屋の窓から飛び降りて逃げた。 それからはもう、その場所には近づいていない。 自分はこのコピペを、単に廃墟に怖い落書きがあったという話だと思っていた。 しかし検索してみると、このコピペを「意味が分かると怖い話」(以下「意味怖」)として紹介しているページが多くある。 その「意味」とは、「最後の『ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね』は落書きではなく声である(この文のみ「書いてあった」と書かれていないため)」というものだ。 というわけで今回は、このコピペの起源と、本当に「意味怖」なのかを調べてみた。

三毛別地図

『慟哭の谷』(木村盛武、2015)には、1915年当時三毛別の六線沢に住んでいた人たちの名前が複数出てくるが、地図は載っていない。

しかし『エゾヒグマ百科』(同著者、1983)や『ヒグマ そこが知りたい』(同著者、2001)には地図が載っていたので、それを参考にgoogleマイマップを作ってみた。








参考にしたのは、前述した『エゾヒグマ百科』と『ヒグマ そこが知りたい』である。

「その家で何があったか」を基準に分類しているため、斉藤家は「被害なし」になっている。

また「死体発見地」や「熊討伐地」も記したが、あまり正確に写せた自信がない。



実は地図を作成するにあたり、気づいたことがある。

それは、岩崎家や松浦家は、『エゾヒグマ百科』では川の対岸に書かれていることだ。

ではなぜ『ヒグマ そこが知りたい』の方を採用したのかというと、それは『慟哭の谷』に次のような記述があるからだ。

熊に侵害されたのは六線沢の右岸にあった十軒すべてであり、左岸にあった五軒はすべて難を免れた。これは、時期的にみて厳寒の渡河を嫌ったためか、単なる歩行のしやすさを選んだかのいずれかであろう。
木村盛武(2015)『慟哭の谷―北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件―』、p.73

『ヒグマ そこが知りたい』の方が、この記述に一致するのである。



ただ、ヒグマが川を渡るのを避けたかどうかには、疑問もある。

というのも、辻橋蔵の家に避難した人たちが後日さらに北へ避難していることや(『慟哭の谷』、p.44)、ヒグマが「(前略)ついに恐れていた三毛別川の合流点近くまでやってきた。」(同著、p.58)と書かれていることからすると、ヒグマはどうやら北へ向かっていたらしいのだ。

これも併せて考えると、ヒグマは単に北へ進むうち、近くにあった家々を襲っただけで、川のことはそんなに気にしていないのではないだろうか。

実際、家を荒らされなかった5軒のうち、岩崎、斉藤、金子の家はいずれも村の奥にあるし、池田家は討伐隊員が集まっていたから(同著、p.53)、襲われてもおかしくなかったのは佐々木家くらいなものだったのだ。

まあヒグマに詳しくない自分が言っても、説得力がないが。


文章のおかしなところを修正。(2017/7/1)

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