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廃墟の落書き

怖いコピペとして、以下のものがある。 俺が小学生の頃の話。 俺が住んでいた町には廃墟があった。 2階建てのアパートみたいな建物で、壁がコンクリートで出来ていた。 ガラスがほとんど割れていて、壁も汚れてボロボロだったから、 地元の人間でも、あまりこの場所に近づくことはなかったらしい。 ある日、俺は友人と肝試しをすることになって、この廃墟に行くことにした。 まだ昼ぐらいだったから、建物の2階まで上がって建物を探索した。 そしたら並んでいる扉のひとつに、文字が書いてあるものがあった。 友人と近づいて確認してみると、扉の前に「わたしは このさきの へやに いるよ」と書いてあった。 俺と友人は扉を開けて中に入り、先に進むことにした。 歩いていくと分かれ道に突き当たって、壁に「わたしは ひだりに いるよ」と書いてあった。 少し怖かったけれど、俺と友人はそのままひだりに進むことした。 すると両側に部屋があるところに突き当たって、壁に「あたまは ひだり からだは みぎ」 と書いてあった。 友人はこれを見た瞬間に、半狂乱になって逃げ出した。 でも俺はその場所にとどまって、勇気を出してみぎの部屋に行くことにした。 部屋に入り進んでいくと、突き当たりの壁に「わたしの からだは このしたにいるよ」 と書いてあった。 下を見ると、「ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね」。 俺は急いで、その部屋の窓から飛び降りて逃げた。 それからはもう、その場所には近づいていない。 自分はこのコピペを、単に廃墟に怖い落書きがあったという話だと思っていた。 しかし検索してみると、このコピペを「意味が分かると怖い話」(以下「意味怖」)として紹介しているページが多くある。 その「意味」とは、「最後の『ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね』は落書きではなく声である(この文のみ「書いてあった」と書かれていないため)」というものだ。 というわけで今回は、このコピペの起源と、本当に「意味怖」なのかを調べてみた。

山本兵吉

三毛別羆事件で加害熊を討ち取ったのは、当時57才くらいだったマタギの山本兵吉(敬称略)。

木村盛武氏の『慟哭の谷―北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(2005、株式会社文藝春秋)によれば、 事件当時彼は鬼鹿村温根の沢に住んでいた。

また銃の腕前は天塩国にこの人あり、といわれるほどで、エゾヤマドリやエゾリスを実弾一発でしとめたという。

よくわからないが、多分凄いのだろう。



彼に関して、同じく木村盛武氏の著作『ヒグマそこが知りたい―理解と予防のための10章』(2001、共同文化社)に、面白い話が載っていた。

以下はその話(p.91)の要約。



山本兵吉は1915年の春、古丹別国有林で冬眠中の熊を狩ることになった。

相棒は穴の入り口に待機させ、自分は穴の真上から杭を打ち込もうとしたところ、足元が崩れてしまった。

熊は、穴に落ちてきた兵吉の両足を抱えて振り回した。

そうはさせじと兵吉が熊の胸に抱きつくと、熊の体の下に入る格好に。

入り口で待っている相棒に、撃てと叫ぶが応答なし。

しょうがないので、腰につけた鉈を取るために腕を緩めると、熊のほうから逃げていったという。

相棒は、兵吉が穴に落ちた時に逃げていたらしい。



冬眠中の熊を狩ろうとして逃がすというのは、今やったら非難されそうである。

札幌丘珠事件は、それが原因で惨劇が起きたわけであるし。

まあ逃げた相棒が悪いのだが。


その後兵吉は、1950年7月に初山別村で亡くなったらしい(『ヒグマそこが知りたい』)。


何回も書き直してしまった……

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