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廃墟の落書き

怖いコピペとして、以下のものがある。 俺が小学生の頃の話。 俺が住んでいた町には廃墟があった。 2階建てのアパートみたいな建物で、壁がコンクリートで出来ていた。 ガラスがほとんど割れていて、壁も汚れてボロボロだったから、 地元の人間でも、あまりこの場所に近づくことはなかったらしい。 ある日、俺は友人と肝試しをすることになって、この廃墟に行くことにした。 まだ昼ぐらいだったから、建物の2階まで上がって建物を探索した。 そしたら並んでいる扉のひとつに、文字が書いてあるものがあった。 友人と近づいて確認してみると、扉の前に「わたしは このさきの へやに いるよ」と書いてあった。 俺と友人は扉を開けて中に入り、先に進むことにした。 歩いていくと分かれ道に突き当たって、壁に「わたしは ひだりに いるよ」と書いてあった。 少し怖かったけれど、俺と友人はそのままひだりに進むことした。 すると両側に部屋があるところに突き当たって、壁に「あたまは ひだり からだは みぎ」 と書いてあった。 友人はこれを見た瞬間に、半狂乱になって逃げ出した。 でも俺はその場所にとどまって、勇気を出してみぎの部屋に行くことにした。 部屋に入り進んでいくと、突き当たりの壁に「わたしの からだは このしたにいるよ」 と書いてあった。 下を見ると、「ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね」。 俺は急いで、その部屋の窓から飛び降りて逃げた。 それからはもう、その場所には近づいていない。 自分はこのコピペを、単に廃墟に怖い落書きがあったという話だと思っていた。 しかし検索してみると、このコピペを「意味が分かると怖い話」(以下「意味怖」)として紹介しているページが多くある。 その「意味」とは、「最後の『ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね』は落書きではなく声である(この文のみ「書いてあった」と書かれていないため)」というものだ。 というわけで今回は、このコピペの起源と、本当に「意味怖」なのかを調べてみた。

谷喜八

三毛別羆事件で活躍したマタギの一人、谷喜八(敬称略)。

彼は三毛別村の住民ではあったが、六線沢地区に住んでいたわけではない。

だから事件が解決した後も、三毛別に住み続けていたと思われる。



googleマップを見ていたら、次のようなものを発見した。



「公共遭難者之碑」の文字の下に、「谷喜八殿」と書かれているように見える。

新苫前町史(苫前町、2015、苫前町史編さん委員会)のp.898に、その事情が書かれていた。



当時、道路の状況は概して悪く、ぬかるんでしまうことが多かった。

そういうわけで、住民により舗装作業が行われていた。

1920年12月14日、舗装用の砂利を採掘していたところ、穴が崩れて3人が犠牲になった。

それぞれ、谷喜八(42)、松村市太郎(19)、森田工(42)である。

1926年に碑が建立され、1980年に新築のうえ現在の地に移転された。



三毛別の事件の谷喜八と同一人物なのだろうか。

本人だとすれば、くしくも事件の5年後になくなっており、因縁めいたものを感じないでもない。

またその場合、谷喜八は事件当時30代であったことも確定するわけである。


ともあれ「郷土史」というのは、縁のない地域のものでも、面白いものである。

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