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廃墟の落書き

怖いコピペとして、以下のものがある。 俺が小学生の頃の話。 俺が住んでいた町には廃墟があった。 2階建てのアパートみたいな建物で、壁がコンクリートで出来ていた。 ガラスがほとんど割れていて、壁も汚れてボロボロだったから、 地元の人間でも、あまりこの場所に近づくことはなかったらしい。 ある日、俺は友人と肝試しをすることになって、この廃墟に行くことにした。 まだ昼ぐらいだったから、建物の2階まで上がって建物を探索した。 そしたら並んでいる扉のひとつに、文字が書いてあるものがあった。 友人と近づいて確認してみると、扉の前に「わたしは このさきの へやに いるよ」と書いてあった。 俺と友人は扉を開けて中に入り、先に進むことにした。 歩いていくと分かれ道に突き当たって、壁に「わたしは ひだりに いるよ」と書いてあった。 少し怖かったけれど、俺と友人はそのままひだりに進むことした。 すると両側に部屋があるところに突き当たって、壁に「あたまは ひだり からだは みぎ」 と書いてあった。 友人はこれを見た瞬間に、半狂乱になって逃げ出した。 でも俺はその場所にとどまって、勇気を出してみぎの部屋に行くことにした。 部屋に入り進んでいくと、突き当たりの壁に「わたしの からだは このしたにいるよ」 と書いてあった。 下を見ると、「ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね」。 俺は急いで、その部屋の窓から飛び降りて逃げた。 それからはもう、その場所には近づいていない。 自分はこのコピペを、単に廃墟に怖い落書きがあったという話だと思っていた。 しかし検索してみると、このコピペを「意味が分かると怖い話」(以下「意味怖」)として紹介しているページが多くある。 その「意味」とは、「最後の『ひだりの へやから わたしの あたまが きてるよ うしろ みないでね』は落書きではなく声である(この文のみ「書いてあった」と書かれていないため)」というものだ。 というわけで今回は、このコピペの起源と、本当に「意味怖」なのかを調べてみた。

加害熊

三毛別羆事件を起こした熊は、体長2.7m、体重340kgの、推定7、8歳のオスのヒグマだったという。

胸から背にかけて、弓状の白斑(袈裟懸け)があったとされる。

この熊は胎児を含めると7人の命を奪い、3人に重傷を負わせた。

そして最期は、山本兵吉(敬称略)によって討ち取られた。




『エゾヒグマ百科―被害・予防・生態・故事』(木村盛武、1983、共同文化社)には、撃たれた箇所の詳細が書かれていた。

加害熊側の解剖をしたところ、側頭部に1発、心臓近くに1発、右後ろ足に3発の銃弾が当たっていたことがわかったのだ。

側頭部と心臓付近の傷は山本兵吉によるものである。

そして右足には、11/30に谷喜八(敬称略)が負わせたものと、12/13の氷橋での迎撃で負わせた傷があり、そして古い実弾がひとつ摘出されたのだ。

古い実弾は明治後期のものと思われた。



氷橋での迎撃で当たったのは一発しかなかったようだ。

それでも熊の動きが鈍ったのは、古傷に連続して銃弾が当たったからなのだろう。

まあ十数人が撃ってこれしか当たってなかったのであれば、住民たちが怒っても無理ないとは思った。

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